" No Judge "
「ジャッジしない」 と言うこと。
いつくか前に巡礼中にゴミを拾っていて、ジャッジしている自分に氣が付いたという話を書いた。
今日はその二つ目の事例を書いてみようと思う。
この巡礼に向け、毎月大和の我が家をベースとして4日間の自己修行を行っていた時の話。
その日は山々は白く雪に覆われていた。
朝目覚め、一杯の緑茶を入れ飲んだ。
修行中は、軽く一杯の玄米飯と、軽く一杯の味噌汁と、梅干しふたつ。
これを夕飯として食べるのみで、その他に口にするものは緑茶と水と塩だけ。
※ これはこの日の夜のご飯(あまりにヘロヘロでご飯多めにしてしまった)
この日はその月の修行の三日目で、大和から国道を下り大善寺から山に分け入った。
初めての道、この先どうなるかは知らない。
尾根伝いに1時間ほど歩いた頃、喉が渇いた。
水もお金も持っていない。
雪を食べ乾きをしのいだ。
尾根伝いに更に歩き峠に着いた。
選択肢は戻り降るか、反対側の谷へ降りるか。
空腹も喉の乾きもあったが、反対側の谷へ降ることにした。
尾根伝いの山道も雪が残っていたが、谷側の北斜面は全面が雪に覆われアイスバーンもあった。
地下足袋の足は雪に埋もれ濡れて感覚がない。
アイスバーンの下りは、いつもの倍以上に体力を消耗する。
その状態で2時間ほど歩き、街へたどり着いた。
喉の乾きは雪では満たされないことを知った。
また街へ入ると山からの氣の巡りが絶えるため、身体的にも精神的にも限界に近かった。
しかしお金はない、水もない。
家まであと2時間ほど歩くしかない。
それから1時間半ほど歩き、心身ともにもはや限界。
そんな時、自動販売機が目に入った。
そこには温かい甘い缶コーヒーなどがあった。
普段その手のものは身体にあまり良くないから飲まない。
しかしその時はその缶コーヒーが命を潤してくれるものに思えた。
自動販売機の下をしゃがんで覗き込み、お釣りが出るところに手を入れてお金がないか探した。
でも無かった。
結局諦め、ヘロヘロになりながら倒れこむように家に戻った。
普段「身体に良くないもの」という目で見ていた缶コーヒー。
同じ缶コーヒーを何が何でも飲みたいと思った自分。
缶コーヒーは同じなのに、自分の状態ひとつでその見方が変わる我が儘。
こんな些細なことろにジャッジしている自分がまだ残っていたことに氣がつけた。
そして飲めないと諦めてからは、少しだけ力が戻って来てたどり着くことができた。
諦める力、それは執着が力を失わせることの裏返しなんだけれど、そんなことにも氣がつくことが出来た。
頭で知ること(知識)と身体で知ること(体験)は別物。
知識は知恵と共にあって初めて生かされる。
知恵は体験から学べる。
知識だけを持ちすぎるとそれは重荷になる。
知識とは使えないお金のようなもので、お金をいっぱい持ってその重荷で歩けなくなるのに似ている。
体験が先で、そこから知恵を授かる。
授かった知恵で知識を活かす。
巡礼という過酷な体験にまつわる氣付きは色々と訪れた。
次回、もうひとつのジャッジの話を書こうと思います。
次回のジャッジはお金というテーマです。