2018年06月22日
巡礼記-16
ジャッジ(分離意識)の次のお話です。
巡礼では頂く食べ物や飲み物は命の綱なのでとても有り難い。
しかし、全身痛みを伴いながら歩いている我が身にとってその重量は非常な負荷となる。
頂き物も過ぎれば逆にその重さが命取りになる。
だから持ちきれないものは、次に出会った人に貰ってもらう。
生きるためにその微妙なバランスをとっていたわけだ。
その状況下で食べ物を手放すのには恐れが生まれる。
次にいつ食べ物を頂けるかわからないから。
それでも手放すことを決心する。
それは、分かち合うことの喜びの本質かも知れない。
巡礼が進むにつれ、お布施(お金)を時々頂くようになってきた。
そして不思議なことにお布施は後半になればなるほどその額が増えていった。
そのような状況の中、お金の有り難さを身に沁みて感じるようになる。
貨幣経済の弊害を暮らしの中で感じることもあったけれど、巡礼の時はお金ほど有り難いものはない。
何故なら、軽い。
そしてその時必要なものに変えるlことができる。
当たり前のことなんだけれど、こんなに有り難い仕組みはないと思った。
お金は必要ないなどとジャッジしそうになる自分があったことに、ここでまた改めて氣が付けた。
人は二種類に分かれる。
ジャッジする生き方か、ジャッジしない生き方か。
ジャッジしない生き方とは、全てを受け入れることとは違う。
只、人に手出しをしないということ。
只、観察していられる人ということだろう。
よかれと思い口を出す。
これは大きなお世話なんだ。
人それぞれに、その人なりの考えがある。
あなたはそうなんだね、と只観察する。
否定もしないし肯定もしない。
人は自分の考えで行動して初めて氣が付ける。
そしてその氣付きが自分を育んでくれる。
その邪魔をしてはいけない。
観察するとは、見守るということだ。
見守るには、勇氣が必要だ。
見守れないのは、見守る勇氣がないからだろう。
愛とは見守られる勇氣のことだと思う。
手出し、口出しをせず、見守る。
ジャッジしない。
平和の叶え方はそれに尽きると思っている。
次回は「人の目」について書いてみたいと思います。
では、また。

Posted by 放浪太郎 at 10:12│Comments(0)
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