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2018年07月22日

巡礼記-19



さて、巡礼記もいよいよ最後になりました。

ここに至るまで本当に多くの方々の支えがありました。山伏の修行も楽ではありませんがこの巡礼とは大きな違いがありました。それは、寝食の保証が何もなかったこと。それは、命の保証がなかったことと言っても良いでしょう。



その道のりを振り返った時、長崎にたどり着くのに必要だった大切なふたつの事を挙げてみます。



ひとつは「辿り着けなくても良い」という赦しを自分に与えられたことでした。諦めと言っても良いでしょう。

「絶対につかねばならない」 「必ず着きたい」 という想いは、自分を責め続けるものです。この責めがあったなら、たどり着くことは出来なかったと思います。

所謂努力程度のものであればその想いで成し遂げることは可能です。自分の人生の中でもそのような努力で成し遂げた過酷な経験があくつかあるので 「やれば出来る」 自信は最初からあります。自信があると言うよりも、 「出来る自分を知っている」 と言った方が感覚的には合います。

しかし今回の巡礼は努力だけではどうにもならないものでした。ある意味 「運を天に任せる」 というか、そういうものだったんですね。

赦して貰える背景にある時、ひとは安心感と共にいられるようになります。勿論努力出来る人で在ることはとても大切なことで、努力出来る人に成ることが先だと思いますが、努力出来る人になったら次は赦せる人として在ることだと思います。己を赦せるのが先で、それが出来るようになると人も赦せるようになります。

これがひとつめのポイントでした。



次にふたつめの大切なことは、未来を想わないことです。巡礼において言えば、 「今夜眠る場所はあるだろうか?」 とか、 「この激痛の身体は長崎まで持ってくれるだろうか?」 とか、 「長崎にたどり着くことは出来るだろうか?」 とか、そのような先のことを考える行為をしないということが大切でした。

普段の暮らしからそのようなことをしない方なのですが、流石に命が関わってくるとついそのような想いを作りだしている自分を知りました。 「おっと、まだそんな恐れを抱く程度の自分だったのか」 ってね。

様々な感情は人それぞれの思考パターンから生まれるものです。それら生まれた、怒り、妬みなどの感情の奥底を辿ってゆくと常にに死の恐れにたどり着きます。一見生命維持のためにそのパターンは重要かのように思いがちですがそうではありません。本能的に死を避ける能力はそれなりに備わっています。しかし必要以上に思考が想定を作りだし、そこから感情が生まれ、その感情で行動する場合が多く見受けられますが、その殆どは不要なものだったはずです。その過程で人は自分を必要以上に傷つけています。そして本来自分が持っている能力の10分の1も使えないまま自分を制御し人生を終わります。

どうせ今出来ることはひとつしかないのです。巡礼において出来ることはとてもシンプルでした。

それは右足を一歩出すこと。右足を出したら左足を出し、そうしたらまた右足を出す。激痛の身体で出来ることはそれしかなかったのです。激痛であったからこそその今を感じ、行動出来るようになったのです。トータルで20日間465kmを66万歩で歩いたのですが、それは一歩一歩を積み重ねた単なる結果であり、全ては一歩の中に在りました。

このように、ふたつめの大切だったことは 「未来に想い煩わされることなく、今出来ることを今やる」 ということでした。






そうやって長崎の平和祈念像の前にたどり着きました。歩き始めた頃は凍え、手足の感覚がなくなるような日々も何日にありましたが、その日は汗ばむ暑さでした。季節は冬から春へ、西から東に駆け抜けていましたが、俺は東から西へ歩きました。普段よりも速いスピードで冬から春に変わって行ったということです。歩き始めた頃は、長崎にたどり着いたら感動して泣くだろうと想っていたし、事実その状況を思い浮かべるだけで涙ぐんだりしたものでした。

ところがどうでしょう。平和祈念像の前に立った俺が思ったのは 「あ、着いちゃった」 という、たったそれだけでした。そこには微塵の感動もありませんでした。

そしてもう一つ、実家は平和公園から徒歩15分かならないくらいの場所にあるのですが、 「もう歩きたくない。誰か家まで車で送ってくれないかなあ」 でした。20日間過酷な環境下で歩き続けた俺が、そのたった15分を歩きたくないと確かに思いました。

20日間は過酷なものでしたが、歩きたくないと思ったことは一度もありませんでした。それは自分が歩くと決めていたからで、決めたということは 「それをやりたい」 と自分が望んでいるのだから当然なんですがね。



この巡礼を通し沢山の人が 「私にはちゃまさんの真似は出来ない」 と言いました。しかしそれは違うと思うんです。それは 「やれない」 のではなく最初から 「やりたくない」 だけでしょう。そのようにして人は本当に正直な己の心を言葉に出来ていないことが多くあり、それを繰り返してゆくと本当の己の声が聴き取れなくなってしまうのです。そして自分を見失ってしまうのです。これはとても辛いことです。

どうか己の声を聴きとってあげられる自分であってください。平和への道はそこにあるとこの巡礼で氣付くことが出来ました。

そしてそんな折奇遇にも、マハトマガンジーのこの言葉に出逢ったのです。



" 平和は道の先にはない
平和は道そのものである "



巡礼を終え1年以上経ちましたが、この言葉が俺の暮らしのど真ん中にいつも在ります。本当に多くの方々に支えられ、貴重な体験をさせて頂きました。

最後に、なぜ平和祈念像の前で微塵の感動もなかったのかというお話なんですが、これは巡礼を終え暫くして氣がつきました。

それは、こういうことです。



俺は、その今の一歩に全てを注いでいたんです。つまり、一歩で俺のストーリーは完結していたんですね。未来を想わず今を生きていると、そうなるんだということに氣が付きました。物語にすれば感動的な巡礼ですしたが、実は感動は全くなかったのです。

俺は自分で言うのも何ですが、かなり感情豊かな方です。その感情が、音楽や写真にも現れますし、映画など観ると感動してすぐ泣きます。おいおい泣くこともあるほどです。そんな俺だけれど、巡礼に関してはこのように在ったというのは本当に大きな氣付きでした。





さあ、これで巡礼記は終わりにします。

読んでくださった皆さま、どうもありがとうございました。



自分でも時々読み返してみたいと思います。

「また巡礼をするか?」 と訊かれれば、今は 「しない」 です。

したくないです。絶対に!笑



巡礼記-19




Posted by 放浪太郎 at 10:32│Comments(0)
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