2017年05月25日
巡礼記-10
男らしさ
男らしさは俺のテーマやった
今回の巡礼には直接は関係なかばってん
でもこいがなからんば巡礼はしとらんて思うけん
今日はこの話ば書いてみるけん
幼少の頃からハタチくらいまで
可愛いとか、お坊ちゃんとか、ジャニーズ系とか
そがん風に言われ続けとった
(えー嘘でしょ!とか突っ込むとこじゃなかぞ、後で写真ば見ればわかる)
性格は、明るく活発、更に負けん氣の強さは人一倍やったけん
尚更そう言われるとが嫌でしょんなかった
その結果、当たり前んごとツッパッテ生きる道を選び
男らしさは強さて勘違いし、自分が正しかって思う道ば突き進むごとなった
人は殴っても蹴り倒してもよか
そがんことに恐れる男はカスって、本氣で思うとった
そして見た目的な男にも憧れ、その象徴が髭やった
(髭生やして20年になる)
転機は課長になった35歳の頃
10数名の部下を持つ時に訪れた
力じゃ組織は動かんて知った
そんでもまだ100人の部下ば持っても
ビジネスの世界に身を置いた間は
俺なりの正しさこそが全てやったて思う
(悪かことも、ろくでんなかことも、ようやりよったばってん)
それがこの暮らしに入り、急激に変わり始める
つづく


Posted by 放浪太郎 at
10:59
│Comments(2)
2017年05月13日
巡礼記 -9
挨拶
田舎道ですれ違う人たち
幼稚園から高校生くらいは
ほぼみんな挨拶をしてくれる
しかも元氣よく
ところが大人になると
同じ地域の人でも
挨拶を返してくれない人の方が多い
これには最初びっくりした
子どもたちに「挨拶をしなさい」と
教えたのは大人たちだろう
なのに、しない
この事実が何日にも亘り
色んな所で繰り返されてゆくうちに
これは山伏の装束に対する偏見なのだろうと
氣がついた
宗教に対する偏見を
日本の大人は持っていることが多いように思う
修験道は宗教ではなく、山岳信仰
細かい定義を論じるつもりはないけれど
ニュアンスの違いはわかるだろうか
偏見とは、偏った見方
差別、ジャッジと言ってもいい
正しさを主張する思考とも言える
子どもたちは素直だ
人と人として素直に挨拶をする
ある日
離任式帰りの男子たちと行き合った
15歳くらいだと思う
彼らは10人ほどで横断歩道の向こう側
その中のひとりが
うわー、なにあれ!
かっけー!
と、俺を見て騒いでいる
その男子はひとりだけ学ランではなく
黒いシャツに黒いスーツ
髪は金髪で耳には金の大きなピアス
いわゆる不良だ
彼が色んな質問をして来た
俺はひとつひとつ答えた
その中で
無一文で広島から長崎へ歩いていることも話した
彼の瞳は興味で輝いていた
挨拶を交わさない大人たちの
伏せた眼(まなこ)とは大違いだ
またある夜
やはり15歳くらいと思われる女子からも
離れた距離にも関わらず声をかけられた
このふたりも見るからにいわゆる不良だ
なんすか、その格好!
なにやってんすかー! と
また、事情を話した
そして、その男女どちらの不良たちも
最後に同じ言葉を投げ返してくれた
それは
「頑張ってください!!」
嬉しかった
「どうもありがとう」
と、笑顔で答え別れた
この不良たちに意見する大人たちが
きっと沢山いることだろう
心を開かぬ者に
素直な子どもたちが心を開くわけがない
そしてそれは子どもに限ったことではない
心開かぬ者の眼(まなこ)は
開いていない
輝いていない
モノゴトに正しさ見る大人の眼の
ジャッジというスクリーンには
善悪が映る
素直な瞳には
在りのままが映る
偏りがない
それは、20日間を
只歩き続けた俺の瞳で見たものだった
俺はこの不良たちに癒され
元氣を貰った
つづく

タグ :巡礼
Posted by 放浪太郎 at
10:10
│Comments(0)
2017年05月12日
巡礼記-8
本州をまだ歩いていた頃は
寒い日も多かった
雨が降るとポンチョに山笠
手足はずぶ濡れ感覚がなくなり
指は全く思い通りに動かせない
国道と言えど
峠などでは歩道もなくなり
大型トラックがすぐ脇を
物凄いスピードで走り抜ける
ポンチョは風に煽られ
体ごと持っていかれそうになり
山笠は吹き飛ばされ
トラックが巻き上げた水しぶきを
顔にも浴びる
それは恐怖だ
少し避けてくれる車もあれば
スピードを落としてくれる車もある
一方ですぐ脇を
恐ろしいスピードで走り去るものもある
俺は車を運転していたとき
一体どのように走っていただろうか
余り記憶がないから、俺もきっと
思い遣りなく走っていたのではないかと思う
でもこれからは
思い遣りを持って走ることが出来るだろう
人間はそんなもんだと思う
自分が恐怖や悲しみや怒りを体験するから
ひとに同じ事をしないようになってゆく
そして、歩いている今はそんな感じだから
トラックが通る度に立ち止まり
ポンチョと山笠を押さえ
飛ばされないように構える
結果として
なかなか距離が伸びないし
寒さで体力はどんどん失われ
氣力も萎えそうになる
でも一歩を踏み出せば
その一歩分だけ着実に前進し
長崎に近づいているんだという
今だけの実感に思いを寄せる
これを繰り返しているうちに
恐怖や怒りは和らぎ
歩けている喜びが湧いてくる
「今を生きる」
という言葉を良く目にするけれど
まさにこれが
「今を生きている」
という感覚だ
ひとは体験から学ぶ
更にそれが冒険であれば
その学びは更に深まると思う
俺は
子どもの頃から冒険が好きだった
たくさん怪我もしたし
危ない事もたくさんあった
それで良かったと思う
冒険のない人生は退屈だ
無難な生き方は退屈だ
勿論それは、ひと夫々で良い
でも俺はきっとこれからも
冒険し続けるんだろうな
つづく

タグ :巡礼
Posted by 放浪太郎 at
17:51
│Comments(0)
2017年05月09日
巡礼記-7
山の修行とは違い
里を歩き続ける
山より歩きにくいのは確かで
それは土や草木が少ないから
そのせいで里では
身体を巡るエネルギーが弱まる
車とは何十万台もすれ違った
しかし人とすれ違うことは
思いの外少ない
田舎道では一日
十人と逢わない
ひとは
住んでる場所ひとつで
流れる時間が早くも遅くもなる
そして、住んでる場所は同じでも
暮らし方ひとつで
流れる時間が早くも遅くもなる
流れる時間はゆっくりで
ひとつひとつを丁寧に過ごせると
心は豊かになる
この巡礼での俺の暮らしは
一歩一歩の中に生まれ
一歩一歩の中で去っていった
実に清々しく
豊かな日々だったね

タグ :巡礼
Posted by 放浪太郎 at
10:20
│Comments(0)
2017年05月06日
巡礼記-6
最初の数日間
ゴミを拾いながら歩いていた
腰に大きめの袋をぶら下げて
道に落ちているゴミを拾いながら歩いた
びっくりするくらいたくさんのゴミ
あっと言う間に腰に下げた袋は満杯
痛めた足で長距離を歩くには
かなり堪える重さになる
ゴミを拾っていたある日の日暮れ
いつもそこをウォーキングしてる風の夫婦とすれ違った
この人たちはいつもここを歩いていて
このゴミが氣にならないのだろうか
なんで拾わないんだろう
そう思った自分に氣がついた時
ゴミを拾うのは今はやめておこうと思えた
自分がたまたま数日間ゴミ拾いしているというだけで
拾わない人を責める氣持ちが生まれてしまった
これは本末転倒だろう
しかも痛む足への負荷がかなりある
俺は兎に角何日かかってもいいから
長崎の平和公園にたどり着きたい
それでいい
たどり着けなくてもいい
でももう少し只歩くことだけに
まっすぐに向き合い続けられれば
それだけでいい
そう思えたんだねえ
だからゴミ拾いはそこでやめました
しかしゴミの多さに改めて驚くし
ゴミを捨てる人がこんなにいるのかってことにも驚く
空き缶、ペットボトル、タバコの空き箱が一番多い
中身が入ったペットポトルがかなりあるのには驚く
拾って飲もうかと本氣で思ったがやめた
小袋に入ったチョコが落ちてたので拾って食べた
何故かエロ本やエロDVDも結構落ちてる(拾わなかった)
コンドームとかもあった(使わなかった)
あ、ここ笑うとこね
捨てる人がいるから
拾う人もいる
捨てるひとを非難するのは簡単だが
それより拾うひとになればいい
捨てないのは当たり前だと思うけど
拾うのは当たり前ではない社会
ならば
拾うことが当たり前の社会にすればいい
そのひとりになればいい
これからも
拾える時には、出来るだけ拾おう
無理のない範囲で構わないから
あ、そう言えばお金も落ちてた
10円玉と1円玉を1枚づつ拾ったよ
拾ったゴミを捨てて下さったみなさん
捨てさせてくださったみなさん
どうもありがとうございました
つづく
タグ :巡礼
Posted by 放浪太郎 at
10:30
│Comments(0)
2017年05月04日
巡礼記-5
目覚めると、何の氣負いもなく
歩き始める
トットコ、トットコ
だって俺がやることは他に何もない
お金が無きゃ生きてゆけないとか
そんなことより
今日もまた歩けるか
それは今日もまた生きられるか
それしか無かったからね
この頃氣がついたんだよね
俺は、その日泊まれるか
って言う恐怖に囚われていたことに
思い返して見れば
食べ物には困らないと
歩き始めたその日に知っていた
なのに、寝るところは大丈夫
とは思えなかった
思ったことは、知ったことなんだね
それからは、寝る場所も氣にしなくなってきた
そうしたら
寝る場所が現れるようになって来たんだ
それは、お布施を頂けるようになったり
友だちの友だちが泊まってってください
って、連絡くれるようになって来たり
嗚呼、これでもう大丈夫なんだって
そう思ったんだよね
それからは
歩くことだけに、まっすぐになれた
足の痛みは、身体中に伝わっていった
普通なら、これを苦痛に感じるんだろうけど
俺には、只歩けばいいだけじゃんって
そう思えた
そうなると
どう足や身体を労わればいいか
そこに向き合うようになって来た
そこで役立ったのが
地下足袋だったんだよね
普通の靴なら、この苦痛には出逢えていない
地下足袋だからこそ、出逢えたわけで
それは、地下足袋なりに歩くしかない
歩き方を工夫するしかないって
そうなってゆくんだね
身体を労わるってゆうのは
楽に歩かせてあげるということもある
それには普通の靴がいいに決まってる
だけど、地下足袋だからこそ
いい加減には歩けないんだね
一歩一歩を大切に踏まないと
直ぐに身体を痛めてしまうんだ
この感覚は
古民家で厳しい冬を生きるのに似てるんだ
不便で過酷な冬を楽しむ術を
もう知っていたからね
ひとは色んな苦境に出逢う
当たり前のことだね
それを苦しみにするのか
喜びに変えてしまうのか
それはそのひと次第
喜びに変えてしまえるひとは
平穏なんだよね
平穏が起こっているのではなく
平穏に変える力がある
っていう事なんじゃないかな
つづく

タグ :巡礼
Posted by 放浪太郎 at
17:35
│Comments(0)
2017年05月03日
巡礼記-4
お寺の倉庫で一晩休ませて頂いた翌朝
6:30から朝のお勤めをご一緒させて頂いた
慣れ親しんだ正信偈に手を合わせた
住職の奥さまが
なんのお構いも出来なくて済みませんと
菓子パンと野菜ジュースを下さった
泊めて頂けただけでも本当にありがたいのに
これでまた今日1日の食糧が手元に訪れた
普通の人の一食で1日歩ける我が身に感謝
そしてまた、痛い足を引きずりながら歩き始めた
トットコトットコ、変な歩き方だけれど
スピードはそこそこのってる
でも歩いていると不意に、今夜は何処で眠れるかな
ってことをつい考えている自分に氣がついた
そしてこの日は
広島でやったLIVEに何度か来てくれた友だちが夜拾ってくれて
美味しいご飯を食べに連れてってくれて
道の駅に寝ることが出来た
道の駅と言ってもまだこの時期は寒い
雨用のポンチョを着て椅子に座って
テーブルに突っ伏して寝た
こんな格好でも疲れ切った身体はあっと言う間に寝落ち
スッキリと朝を迎え、またトットコトットコ
朝6時頃から歩き始めた
足はかなり痛いけれど
然程苦痛とは感じない
だって歩くしかない
歩きさえすればいいんだし
って、氣楽な俺がいつもいた
呑氣だよなあ
広島を出た時最初に見た道路標識には
「下関 198km」って書いてあった
いつになったら下関まで100kmを切るんだろう
なんて考えたりもしたけど、考えたってしょうがないしね
歩いた分だけは確実に進んでるわけだし
「ま、いっか」って思ってたよ
そしてこんな風に歩いていると
平和の祈りなんてものは特段無かったね
でも
こんな環境でも呑氣に歩き続けられる俺は
平和以外の何者でもなかったなあ
つづく

Posted by 放浪太郎 at
06:00
│Comments(0)
2017年05月01日
巡礼記-3
山歩きに堅強な足も、初日
硬く単調な歩道を20km歩いただけで
翌朝、起き上がるのがやっとな状態
歩き始めると
一歩一歩、激しく痛む
左足、右足、膝、坐骨へと
日に日に痛みが拡がってゆく
2日目の昼頃、足が動かなくなり
まさか2日目にして断念か、と
流石にそれはないよなあ
みっともないし
応援してくれたみんなの顔が浮かぶ
とにかく一歩を踏み出すことだけに
左、右、左、右
この一歩を出すだけでいいんだ
この一歩を出すだけでいいんだ
そうやっているうちに
声をかけてくれる方に出逢い始め
声をかけて貰えると元氣になって
なんとかその日は、40kmを歩けた
みんなの応援と
声をかけてくれる人がいなかったら
本当に2日目で断念していたかも
だって、一歩を出すことすら
限界のような感じだったから
でも不思議なもんで
なんとか一歩を出しさえすれば
それが次の一歩に繋がってった
人生立ち止まっちゃ駄目だね
そして焦っても駄目だね
今できる一歩をやる
そしてそれを続ける
そんな一歩を66万回繰り返したら
長崎に着いてたんだよね
長崎に着こうとしたら
たどり着けなかったって思うよ
きっとプレッシャーに押しつぶされてた
俺は元々プレッシャーには強いけど
それでも無理だったかも
でも最大のプレッシャーは
長崎にたどり着くことではなく
その日寝られるか(生きられるか)だったんだよねえ
室内じゃなきゃ寒くてとても寝られる気温じゃなかったからね
つづく

タグ :巡礼
Posted by 放浪太郎 at
10:52
│Comments(0)